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先日コメダ珈琲で、座席に案内される順番を待つ間、iPhoneをいじる代わりに珍しく女性誌を読むことにした。1ページ程のコラム記事に書かれた、ある部分が印象に残っている。内容から察するに、コラムニストは子どもを持つ既婚女性だが、このような趣旨のことを書いていた(たぶん、大体こんなだったよなーくらいの感じで書いてます)。
「子育てをしていると、心の奥底に潜んでいた野蛮さに嫌でも気付く。今まで存在すら知らなかった自身の性質に、頭を殴られたようなショックを受けるお母さんも少なくないだろう」
わたしはすぐさま、今でも近所に住む幼なじみの女性を思い出した。
心に潜む野蛮さ
あれは幼なじみと、彼女の4歳になる息子、そしてわたしの3人で出かけた時のことだ。公共の場で、しつこくわがままを言う息子を幼なじみが注意したところ、息子は顔を真っ赤にし、ゆうに周辺100人には聞こえそうな大声で「ママ大嫌い」と騒ぎ出した。
どストレートな子どもの物言いがもつ殺傷能力は、ほんっとに恐ろしい。
なぜか、言われてもないわたしが傷ついた。ドロッドロなイライラもマグマの様に噴き出した。
その大嫌いなママにあんた毎日・毎分・毎秒どんだけ世話になっとんじゃい!
思わず幼なじみの反応をうかがうように振り返ると、彼女は眉一つ動かさず、無表情でただ「静かにして」とだけ言った。
彼女の冷静な対応にすっかり感心したわたしは、別の時にそのことを幼なじみに伝えた。すると彼女は
「あの時は外だったから。家では怒ってばっかり。鬼みたいな母親だよ」
と自嘲気味に答えた。正直、意外だった。
わたしと幼なじみは頻繁に行き来する仲というほどではないにしろ、赤ん坊のころからの付き合いだ。彼女のことはまあまあ知っているつもりだ。穏やかで、いつもニコニコしていて、知的で、オシャレ。怒ったところなど一度も見たことはなかった。幼なじみ自身も、時に内側からフツフツと沸き立つ感情に振り回され戸惑っていたのだ。
あ! やせいの〇〇 が とびだしてきた!
わたしの幼なじみだけではない。突発的に表層化する野蛮なもう一人の自分に驚き、落ち込む経験をもつ知り合いは周囲にたくさんいる。
子どもと夫を残しプチ家出をした
夫を閉め出した
感情任せに鍋に八つ当たりし凹ませた(ちなみに凹んだ鍋は今でも現役とのこと)
ある時は笑い話、また別の時は深刻な懺悔、打ち明け話を聞かせてくれる知人たちのトーンは様々だ。
ただ共通しているのは、どの知人も本当は感情的になどなりたくない、ということだ。
だが激情というやつは、そんな都合など一切考慮してくれはしない野生のポケモンみたいなものだ。急に現れては、ライフをガシガシ無遠慮に削っていくのである。
つまづいたっていいじゃないか…
これは何も世のお母さんに限った話でもないだろう。欠点・弱点のない聖人君子などこの世に1人もいないのだから。
聖書には「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない(伝道の書7:20)」とある。
また、相田みつをは上記の精神をより簡潔にこう表現した。
「にんげんだもの」
だが、例えそれが分かっていても、完全に正当化された気分には、そう簡単になれないものだ。場合によっては、ろ過しきれない後ろめたさを心の隅で感じるかもしれない。
なんて考えていたところ、ツイッターのTLをこんなタグが通りかかった。
#もともと残酷で有名だった
以下に、このタグを使用したツイート例を挙げるので見てほしい。
図書館で「日本ほど格差のない国はありませんん」とかいう本を「幻想文学」の棚に移動した #もともと残酷で有名だった
— 孤高の山猫藤木中務大輔凪沙 (@NaGiSa_FJ) April 29, 2018
散歩というと喜ぶチワワに「三個」などといって反応を見る#もともと残酷で有名だった
— Shun (@Rally_Rally_Run) April 29, 2018
#もともと残酷で有名だった
— おたみ (@otamiotanomi) April 29, 2018
キャバクラ嬢がミスって渡して来た名刺の裏によく分かる暗号が書かれていたがそのまま持って帰った。 pic.twitter.com/IUjy1v8EeG
「#もともと残酷で有名だった」でソートした結果、「地味な悪さ自慢」ツイートが次々出てきた。どの「悪さ」も実害レベルとしてはささやかで、ニヤリとしてしまう面白さすらある。このタグの大喜利に嬉々として目を通しているうちに、とうとう元ネタに遭遇した。
どうやら、私が議員だから、良い子ちゃんだと思ってる方々がいる。
— 小坪慎也@トレンド1位 (@kotsubo48) April 27, 2018
それは誤解です。
経歴を隠しておらず、元走り屋。70台を誇るチームの頭で、基本的に組織戦闘を好む。圧倒的な戦力で、敵対勢力を焼き払う。譲歩はない、躊躇もない、示談も許しもない。
もともと「残酷」で有名だった。
イタイ。
他とは違い、こちらには苦笑いするばかりだ。郷里の議員という事実にも正直ドン引いた。議員という立場上、誤解をそのままにしておいたほうが良かったのではないか。まぁ、どうでもいいが。
世の中には、自らの内に潜む粗野な部分に恥じ入り、思い悩む人々がいるかと思えば、
それをまるで武勇伝かの如く公表してはばからない人もいるようだ。
自分で言ったらダメなやつ
それにしても「#もともと残酷で有名だった」で自慢される悪さは、なぜ、どれも「ちょっとしたもの」に止まったのか。元ネタの内容を思えば不思議に感じられる。
元ネタのツイート主である小坪氏が「残酷」とまで主張した悪さが欠片も伝わっていない。それどころか、悪さの内容を小さくまとめることで、元ネタの「悪さ」を嘲笑し、軽く扱っている節がある。
恐らく小坪氏が「残酷だった」こと、「有名だった」ことを自称してしまっていることに原因があるだろう。
実績。功績。手柄。こうしたものは発信者が自称すると、なぜか受信者の中では何%か割り引かれて認識されがちだ。
例えば、犯罪ニュースで容疑者の職業が「自称・モデル事務所社長(33)」とアナウンスされるとする。「自称」が付くだけで、「本人はそう言っているが、本当はそうじゃない(または大したことない)んですよー」みたいなニュアンスが追加される。
つまり「自称」には説得力がないのである。
ということは、悩ましい内なる野蛮さも、自分で言っちゃえば、その深刻さが軽減されるのだろうか?
この場で試してみよう。
『実はわたし、高校生の時、実家の居間の漆喰壁を破壊しました。
あの時わたしは、「デッカイ蜘蛛がいたから」と言い訳しましたが嘘です。むしゃくしゃしたから、英語辞書の入った通学カバンを砲丸投げみたくブン投げて壁に穴をあけました。何にむしゃくしゃしたかは記憶にございません』
ブログを読んでくれてるお母さん、どうですか?
万一、母の怒りが収まらない場合は、時効を主張しようと思う。
きゃとらに🐈
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