思いやりって案外難しい

■スポンサーリンク

 

20180510200041

 

みなさまこんにちは🐈

 

お元気ですか。わたしは久しぶりに熱を出しました。

今回は、そんなわたしの状況にタイムリーなツイート(?)を発見したので、それにまつわるお話し。

※冒頭の4コマは下記内容とびっくりするほど無関係です

 

 

 

 

 上のツイートでトピックになっている夫婦とその会話に注目したい。

(本来は妻のツイートを直接引用すべきところですが、当該アカウントが既に削除されているため上記ツイートから内容を見ていきます)

 

 

妻:悪いけど夕飯作れそうにないので自分でお願いします

 

夫:わかりました。弁当買ってこようか?

 

 

そしてこの会話後の妻の下記ツイート内容が、今回の争点となっている↓

 

 

妻からいきなり「夕食作れそうにない」と言われて「わかりました」と答える夫

えっ?と思いませんか(中略) 

 

 

妻が「えっ?」と思った理由は、その後、妻と彼女のフォロワーの間で交わされたリプライで明らかになる。

 

 

フォロワー:うちも同じです!

「夕食が作れそうにない」の奥に何があるのか…体調が良くないのか、気分的に落ち込んでいるのか、何か予定外のことがあって忙しくなったのか、そういったことに思いを巡らせることはしないのでしょうか(顔文字)「大丈夫?何かあった?」のひとことがあるだけで全然ちがうのに。

 

妻:そうなんです、そこです…

 

 

妻がまず見たかったのは、「どうしたの?大丈夫?」などといった、普段とは異なる彼女の状態を気遣う夫の態度だったのだ。

 

この一連のやり取りに対し、ツイッター上では意見が分かれた。

 

 

「妻の言う通り。夫はまず、妻を一言気遣うべき」

 

「気遣いなら、弁当を買ってこようか、という夫の一言に表れている。それに気付くくらいの思いやりを示すべきは妻の方」

 

 

つまり、「思いやりが足りないのはどっち?」という議論になったのだ。

もちろん、なかには中立の人達もいて、「互いに思いやるべきだ」と主張した。

 

妻・夫それぞれの性格、夫婦関係、会話発生時の状況など、本件にまつわるバックグラウンドで、不明な点はあまりにも多い。だから、断片的な情報だけを頼りに、どちらが思いやりに欠けていたか、なんて、そもそも外野の我々は知る由もない。こんなこと言うと身も蓋もないですが。

 

ただ、と言うべきか、だからこそ、と言うべきか、「両者とも互いを思いやるべき」という意見は至極真っ当、ゴールデンアンサー間違いなし!という感じがする。

 

 

だが仮に、もし今回のことが、互いを思いやったうえで、それでも避けられなかった事態だったとしたらどうだろう? 

 

 

 

良かれと思って

 

大学時代、平和構築学の授業で講師のサリーン教授(仮名)からこのような話を聞いた。

 

 

ある時、サリーン教授の妻・ベス(仮名)が風邪を引いた。

そこで教授は、ベスが安静且つ、快適に過ごせるよう万全の体制を整えた。教授にとってこの場合の「万全の体制」とは、「完全な静寂」を意味していた。「何もしない」、「誰ともかかわらない」、「良くなるまでひたすらベッドで横になる」の3点セットである。

 

そこでまず、ベスを2階のベッドルームへ隔離した。サリーン家には5人の子供がいる。遊び盛りの彼らには母親の病状を伝え、うるさくしないよう、またいたずらに様子を見に行ったりして母親を煩わせないよう釘を刺しておいた。もちろんサリーン教授自身も例外ではない。ベスの方から用があったり、彼女の元へ食事を運んだりする場合を除いて、一切干渉しなかった。あとは、ベスの回復を待つばかりだった。

 

ところが、数時間後、サリーン教授の整えた完全なる静寂は、予想外の人物によって破られた。

ベスが、泣きながらヒステリーを起こしたのだ。

 

 

「なんて酷い夫なの!」

「わたしのこと愛してないのね!」

 

 

浴びせられた言葉は、どれもサリーン教授にとって身に覚えのないものばかり。教授は困惑した。心外でもあった。

「愛しているからこそ、ベストな看護体制を敷いているんだ!」と、怒り狂うベスに訴えた。

するとベスはこう怒鳴り返した。

 

 

「じゃあ、何で誰もお見舞いに来ないのよ!」

 

 

サリーン教授は啞然とした。聞けばなんと、ベスは、病気になると家族や友人にできるだけ様子を見に訪ねて来てほしいタイプの人間だったのだ。

 

ところがサリーン教授がベスをほぼ「完全面会謝絶」状態にしたため、訪問者はもちろんゼロ。誰も自分のことなんか愛していないんだ、と孤独な悲しみに暮れたのだという。

 

この日を境にサリーン教授は、「万全の体制」をまるっきり変えることとなった。

 

ベスが病気になったら、15分に一度は様子を見に彼女のベッドを訪ねる。近所の親しい友人にも連絡し、見舞に来てくれるよう頼んだ。また、花束やチョコレートなどの見舞い品を用意し、子ども達には母親のためにカードを作らせるようになったという。

 

「これじゃ看病というより、イベントプランニングだし」

 

 そもそも自分の思っていた看病とは全然違うんだけど、と言いながらサリーン教授は最後にこう言い添えた。

 

「相手のためになってこその思いやりだから」

 

 

思いやりが自己満にならないために

 

この話を聞いて、つくづく言動とは発信側ではなく、受信側の感受性に意味が左右されるんだな、とわたしは思った。

 

そうなると問題は「思いやりのある・なし」でなく「思いやりがどういう形で表現されているか」だろう。

 

つまり「思いやり」とはプレゼントのようなものなのだ。

差し出したものが、受取人の意に添う場合のみプレゼントとして認識される類の。

だから「自分が欲しかったから」とか、「これが良いかと思って」とか、己の感覚のみを頼りにプレゼント選びすると失敗するリスクは高まるだろう。

 

 

相手への気遣いを総動員しても失敗を100%回避できるとは限らないなんて、思いやりってホントハードル高いですね。

 

 

 

きゃとらに🐈 

 

■スポンサーリンク